世界が雨に啼く音

I CAN'Tで語る言葉たち…   

私の人生という物語

言葉が描き出され、色とりどりの絵で満ちてゆくそのキャンバスには

狭い四角形の中だけにしか、物語は存在できない

本を読み始める、たくさんの数え切れない喜びや悲しみや、時には人が死んだり、時には魔法の箒で空を飛んだり出来る

しかし、その本の限られたページの中にだけしか、物語は存在できない

私たちは人生という物語の途中だが、それがいつ終わるのかは誰にもわからない

キャンバスの大きさも、本のページの数もわからない未知で神秘で、とてつもない大きな人生の物語をきっと今、私たちは作っている

私はとてもつまらない人生の物語を歩んでいるかもしれない

誰も私の物語など興味ないかもしれない

けど、少しだけこらから話す私の子どもの頃の物語を見て欲しい

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5歳か、6歳か、不確かな子どもの頃あなたたちはよく真夜中に喧嘩をし、ガラスの割れる音で目を覚ましていた

「俺を殺してくれ…」

まだ小学校1年頃の私だが、あの泣きそうな震えた父の言葉は一生忘れられない

父は四畳半の部屋で寝ていて、日曜日の朝は窓を開けて煙草を吸っていた

私は「煙草吸ってからシャボン玉吹いて!」

と無邪気にお願いすると、プーっと吹いて白いシャボン玉がふわり、ふわり、パチンと割れると煙が上がるのを見てキャッキャと笑った

父はとても優しかった

夏には父が好きな濃い麦茶を一緒に飲んだ

私はトマトジュースが大好きで毎朝トマトジュースを飲んでいた

私は再放送されていた「ナイトライダー」が大好きで黒い車が大好きだった

子ども用のおもちゃの車のタイヤをテープで真っ黒に貼り、夕暮れ時に放送されるオープニングテーマと同時に走り回ってはしゃぎ、夢中になってナイトライダーを見ていた

一度だけ気まぐれに、遊園地へ行くのを嫌がった事があったが、少し強引に遊園地へ連れて行かれ、結局はとても楽しかった

父はいつも私、そして妹の事を考えてくれた

殴られたことも怒られたことも一度もない、頬ずりされると生えかけた髭がじょりじょりして痛かった

父は一度入院をした

その理由は当時はわからなかった

お見舞いに病院へ行くと父と抱き合って喜んだ

父はある時期から様子がおかしくなっていった

顔を真っ赤にし、倒れそうなほどフラフラになって家へ帰ってきたり、夜にどこかへ出かけて真夜中に千鳥足で帰ってくる

半開きのドアのままおしっこをしようとして後ろに倒れたり、私は父の様子をとても心配していた

父の様子のおかしさに恐怖があったのもあるかもしれない

あの入院はアルコール中毒による肝臓の病気だったと思っている

そしていつか、父は居なくなった…

父の写った思い出の写真を捨てるように母に命じられた

「どうしてなんだろう?」

幼すぎた私には意味が分からぬまま、言われた通りに写真を探していた

みんなで父の木目色のセドリックワゴンの後部座席に揺られながら眠りこけ、目が覚めると海岸線の石段で海を見ながら煙草を吸っていた

その時に撮った海の写真、何気なく撮ったのだろう父と幼い妹と私の映る写真

すべて集めて袋の中に詰め込んでいた母

二十歳の頃に知ったのだが、父はいなくなった数年後、死んでしまったらしい

どうして、なぜ死んだのか、死んだ日、死んだ事実すら教えてもらえなかった

知った時はとても悔しかった

母にどんな過去があるのか誰かに聞かなければわからないが、その時母は

「ずっと嫌いだった」

と言っていた

わからない…父がこの世界からいなくなった部分の意味、理由はわからない事が多すぎる

母にとっては父はいつか落ち葉と共に吹き抜けてゆく木枯らしのような恋人でも、私にとって父は私の分身なのだから…嫌いになれるはずがない

父は今も私の中で生きている、もしかしたら今も私のそばで微笑んでいるかもしれない

みんなで暮らした家はいつからかがらんどうになり、土足で上がるように言われた

学校から帰ってふたつ下の妹と家でビニール風船でドッヂボールをして電話が鳴るのを待っていた

電話が鳴ると母が迎えが来るのだ

そして祖母の家でしばらく暮らしていた

その後、3年生に上がる頃だっただろうか、突然ここでこれから暮らすんと言われ、アパートへ入った

クリフ・リチャードのような軽めのリーゼントをした美形の知らない男がそこにはいた

BMWに乗っているどこかおしゃれな男だった

部屋はワンルームでとても狭かったが、男は私をすんなりと受け入れてくれ、息子のように可愛がってくれた

そこで暮らし始めた頃の夏休み、母が作ってくれたコップにコーラ、その中にミニトマトを入れて凍らせた物をよく食べたのを覚えている

数年後男と母と妹で、学校がとても近いとある3部屋のアパートに引っ越し、暮らし始めた

私は小学校高学年になっていた

男と母は男が経営する小さな電子部品製造会社で電子部品を作っていた

私はその頃から男の帰宅に恐怖を覚えるようになる

私は幼稚園へ上がる頃から電化製品が好きで、カセットテープを分解して遊び、童謡などに興味は全くなく、ビートルズビートたけし、演歌やニューエイジ喜多郎を好んで聞くとても変わった子供だった

男に恐怖を覚えるようになったのは中学生に上がり、小さくて女の子に間違われるほどの顔つきで、無邪気な私から中学生になり、身長も伸びて成長した私に可愛げが薄れた事に嫌悪感を覚えたのだと思う

食事の時カレーを混ぜるな!食べてる時の目がうるさい!こっちを見るな!もう少しマシな食い方できねーのか!

などというマナーで怒られ、確かにそれは正しい指摘だったかもしれないが、共に食事をするのが怖くなった

真夜中に、母とセックスをする声を聞いてしまった時、恋人なんだということを悟った

ある日、小学校からの友達数名を読んでスーファミで遊んでいると男が帰宅するやいなや

「うるせえ!外で遊べ!」

と大声で怒鳴った

一緒にいた友達も全員その瞬間に張り詰めた空気と形相に怯え、外へ出た

「あれ、父ちゃんか?怖いんだな」

その言葉に何と説明していいかわたしにはわからなかった

あの日から友達を連れて来ることはできなくなった

ある日、中学の体育で疲れ、横になってテレビを観つつ、うとうとしていると、玄関から帰ってきた男に思い切り背中を蹴られた

「ウッ…」

と痛みで振り向くと

「風呂洗ってねえじゃねーかよ!洗って水くんどけ!ゴロゴロしやがって!」

と妹の前で激怒し、そのような約束をした覚えもないし、私は戸惑いながらも言う通りにした

この人に逆らうと暴力を振るわれる、そう確信した私はいつしか2段ベッドの上にしかいられなくなった

1年間、2年間かは曖昧だが、その数年ベッドの上だけにしか私の居場所はなかった

もし降りてテレビなんか一緒に見ようものなら些細な事で、睨まれたり、鬱陶しいと言われたり、殴られたりするかもしれず、それが怖くて仕方なかった

ベッドの上だけが心が休まる場所だった

母はその頃は私の味方だったが、ある夏休み、テレビをつけてベッドの上で海外のプロレスを見ていた

鮮やかな技の掛け合いに、プロレスって面白いんだな、と思っている時に母が帰宅し

「プロレスなんて見てんのか~もっとマシなの見なよ」

と軽い口調で言ったと思うのだが、その時私は号泣してしまった

男からの、いわゆるパワハラに精神が参っていて自由な時間がベッドの上でしかなかったため、母にも自由を奪われた

そんな気持ちになって悲しくなったのをかすかに覚えている

その後中学2年になるかならないかの頃、公営団地に引っ越しをすることになり、その時になぜか男はいなくなっており、母と妹との3人で暮らし始めた

私は、その頃から小学生時代からあったアスペルガー(おそらく)の影響で発作的な異常行動や万引き、喧嘩、クラスメイトへのイジメ、教師に逆らう、校舎を汚す、などの非行に走るようになり、学校や母をたびたび困らせるようになっていた

真夜中に校舎に忍び込んで盗みを働こうとした時に赤外線防犯装置で警察に包囲されて捕まり、取り調べ室で項垂れていると

母が自身で経営していたスナックから飛んできて深々と頭を下げ、何度も警察官に謝ったあと、一緒に帰った

ただ、その非行は男が引き金になったのかはわからないのだが、その時だっただろうか母は私に泣きながら

「お前のせいでT(男)と別れるハメになったんだぞ!少しは反省しろ!」

と、初めて自分の心を私に打ち明けた

今まで母は、自分の気持ちを私に話すことなんて一度もなかった

子供に心配をかけるのが嫌だったのだろうと、私は思っている

母のいない時に盗み見た手帳には私の小学校からの異常行動への心配やスナックを経営することへのときめき、私の非行などがびっしりと書かれていた

その頃私を一番心配し、一番気持ちをすり減らして嘆いていたのは母だった

私の異常行動は妹へも矛先がたびたび向けられ、精神病にさせてしまったことがあり

あの男と暮らして私だけがゴミのように扱われ、逆に可愛がられていたのを見てた妹と公営団地に引っ越した時、何かが入れ違うように妹の居場所を奪ってしまったのかもしれない

私は中学2年に上がるか上がらないかの頃母にアコースティックギターを教えてもらった

1番最初に習ったのはさだまさしの「精霊流し」だった

この時、突然私の中の何かが弾けるような感覚に見舞われ、ギターにのめり込んだ

ギターは半年もしないうちに母よりも上達し、70年代のフォークソングに夢中になった

そんな事をしている中学2年の頃、選択式授業で美術か音楽の選択で音楽を選んだが、そこで音楽を選んだのは3、4人だけだった

A先生とクラシックギターで「禁じられた遊び」を習ったり、歌を歌ったりしていた

私は授業外でもクラシックギターで練習したり、フォークソングを弾いたりしているのをふとした時にA先生に見られ、A先生は私のもとへ笑顔でやってきて

「ね、作曲やってみない?」

と言った

ここで私の人生は急激に変わった

普段弾いているギターで音楽コードの知識はあったものの、楽譜が書けなかったため

A先生はピアノの前で準備をし

「鼻歌で閃いたメロディと合うコードを教えてあげる」

そしてその時に完成した曲は当時好きだった中国ポップスの张洪量というシンガーソングライターが作った「你知道我在等你吗」という曲を思い切りパクった「木陰」という曲で、人生で初めて世界に無いものを自分で作り出す快感のような感覚を覚えた

その後は楽譜が書けるように猛勉強し、音楽家にしか知らない楽譜のルールなどもA先生にたびたび教えてもらった

3ヶ月ほどで楽譜が書けるようになった

私が音楽を作る喜びを知り、その長い旅の始まりの合図をくれたのがA先生だった

私のめり込み、のめり込み、のめり込み

とにかく作曲にのめり込んだ…あれから音楽の事を考えない日なんて一度もない

アスペルガー症候群は好きな物に異常なほど執着して周りが何も見えなくなる症状もあるらしく、おそらく楽譜を3ヶ月で書けるようになり、音が頭の中でニュアンスとして鳴らすことができる相対音感が出来たのも

アスペルガー症候群、そしてA先生のおかげだ

高校に上がる頃は非行や異常行動はほとんどなくなり、相変わらず作曲に夢中になっていた

自分の作った曲の楽譜ノートを当時の音楽の先生のところへ持って行き、弾いてもらい、プロのピアノの音で自分の曲が演奏されるのを聞いてますます音楽を愛した

中学生の頃は0点に近かった英語は作詞で英語が出来たらいいな、と思い立ち中学3年の終わり頃英語に興味を持ち

0に近かった点数が高校の段階で90点前後を取るほどに上達した

私は音楽の中で常に生きていた

音楽のためにする努力なんて楽しくて仕方ない

楽譜の記号を覚えるのが楽しくて寝られないほど無我夢中でその快楽を楽しんだ

今回の物語はその1として、またいつか続きを書こうと思う

その2は不幸と試練と挫折だらけだが、見てくれている人がいたら私の拙い文章に少しの時間をいただきたい

今日のところはこれでおしまい